場面緘黙症のことを外から見る人にとっては、 場面緘黙症の症状とブログでの発信は矛盾する行動のように見えるのではないか。
周りから見ていてわかりにくいだろうと推測するのは「話したくないから話さないのではなく、話したいことはあるけれども話せないのだ」ということ。
これはどの場面緘黙症当事者の体験記にも出てくることなので、当事者においては一般性のある話だろうと思うが、周りからは会話を拒否している人との見分けがつかないだろう。
自分に場面緘黙症傾向があることを知った今、何故ブログを書くのか、何故書き続けるのかという理由を整理してみたいと思った。
モヤッとしていて一言で表現はできないのだが、言語化すると下記のようなことがあると思う。
自己承認欲求
自分のことを認めて欲しい、知って欲しい、知った上で受け容れて欲しい、そんな欲求。
ブログに記事を投稿して反応があると満たされる部分はある。
とはいえ、反応が無かったら記事を書いた意味が無いかというとそこまでではない。
自分の中では、書こうと思った記事を公開できる形に整えて、公開ボタンを押して公開するところまでで目的のほとんどは達成している面がある。
でもPVが増えると単純に嬉しいし、どんな記事が検索されているのかということは気になる。
人並みの自己承認欲求はあるのだと思う。
自意識過剰の抑制
思ったことを思ったように書いても、そうそう批判されたりするわけではないことを確認している。
人はそんなに自分のことを見ていないよ、ということの確認。
特に「こんなこと書いても大丈夫かな」という内面の吐露的なことを書いても矢が飛んでこないことを確認しているようなところがある。
社会の中に居場所があることを消極的に確認しているというか。
清く正しく美しく無くても、肩肘張らず、好きなことを好きと言いながら生きてもいいよね、ということを自他に発信しているというか。
そんなことが不安なら公開しなければいいのに、と思うだろうが、その一方で王様の耳はロバの耳的に自分の中だけにしまっておくのは苦しくて、どこかに吐き出しておきたい欲求とでも表現すべき何かがあるようだ。
発信欲求の充足
自分はこんなことを考えている、その考えたことを何らかの形で外部に発したい欲求がある。
頭に浮かぶ考えの中には妻や子供に話して充足するものもあれば、彼女らに話してもお互い不毛な時間となるだろうな、という内容もある(ぽかーん、となったり、「ハイハイ、そうなんだね」と軽く流されたりするであろうという推測)。
「一応公開してあれば、もしかしたら同好の士の目に触れるかも?」という場所(このブログ)に公開することで、考えていたことが成仏する、という感覚がある。
場面緘黙症の特徴として、学校で全く話さない分を取り戻すかのように家ではよくしゃべる、ということがあるらしい。
そのせいで、学校の先生から連絡を受けるまで親が学校での様子を知らずに推移することも場面緘黙症あるあるのようだ。
つまり冒頭でも書いたように、話すことが無い、話したくないから話したくないのではなく、話したい欲求はあるが、話せないのだ。
場面緘黙症当事者の体験記が書籍として出版されるというのも、後世の当事者のための情報提供という公益的な面が一つあるのはもちろんとして、私と同様に発信欲求に駆られる側面もあるのではないかと勝手に思ったりしている。
編集後記
最近、2013年頃の過去記事を読み返す機会がちょくちょくあった。
ブログに書くカテゴリーも、記事の中身も、文体も、年が経つ間に変わっていくものだと感じた。
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私にとってブログを書く意義とは何なのか
2013年版の「ブログを書く意義」記事。
「考えたことの供養・成仏」的な目的は、当時から漠然とあったのだと思う。
当時はカテゴリーが拡散気味なことを気にしていたらしい。
後から記事が増えていったカテゴリーについて自分の中での位置づけを説明したりしている。
今は想定読者を想像し過ぎるのはほどほどにして、そのとき書きたいことを書くことにしている。
そもそもこれまでだって、想定読者は裏切り続けて変なことをたくさん投稿してきた。
例えば検索流入読者を想定した記事なんかは、司法書士試験受験生読者にとっては「ぽかーん」もいいところだったであろう。
個人のブログなので、書きたいことを書けばいい、と開き直るようになった。
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