場面緘黙症の体験記を読んでいて、ああ、自分は場面緘黙症だったのか、と思い至ったエピソードの一つに、「家に他人が来た際の反応」があった。
あなたの隣の話さない人-緘黙(かんもく)って何?-[改訂版] のエピソード
・・・なぜか家ではひょうきんである場合が多いのです。
私のこの性格は今でも基本的には変わらず、家の中では娘に冗談ばかり言い、「コンビでも組まない?」などと軽口をたたいては娘にシカトされているのですが、娘が家に友だちを連れてきたりすると急に黙り込んでしまい、後で彼女から「パパ、人が来ると性格変わるね」などと言われるのです。
子供のお友達が家に来ると、人が変わってしまう
上記のエピソードを目にするまで、それが普通でないということには思いが到らなかった。
みんな多かれ少なかれそういうものだろうと思っていた。
しかし、考えてみると自宅に子供のお友達が遊びに来た際、妻は多少よそ行きの行動こそするものの、話し方や態度は変わらない。
彼女にとっては、外部の人が入ってきたところで、ここが「自分の家」の中であることに変わりは無い、という話なのだと思う。
その一方で、自分は我が子達との間の会話も極端に少なくなっていると思うし、お友達にもナチュラルには話しかけられない。
自分のホームグラウンドであっても、借りてきた猫状態になる。
「そうか、これは人見知りとか、緊張症とか、そういうのとは違うんだな」とは、こうして当事者のエピソードとして目にするまで気付かなかったのであった。
僕も家では結構しゃべる
外では必要なこと以外しゃべらない人間なので、家でもムスッとしているんだろうと思われていると思うが、家では結構しゃべる。
うちの二人の子ども達に「お父さんは家ではしゃべるのか?」と聞いたら、「変なことばかり言っている」と答えると思う。
おそらく、外でしゃべらない反動のようなものだと思う。
小学生からの挨拶にどう返すかに戸惑う
それと似た問題として、登下校中の小学生に「おはようございまーす」とか「帰りました~」と挨拶された際にどう返すのか?ということにも、戸惑ってしまうところがある(うちは田舎なので、近所の大人に挨拶する小学生が今でもいる)。
大人の男性が返す挨拶としては「おはよう」「お帰り」といったところが適切だということは頭ではわかる。
でも、それは自分にとって自然でないというか、距離感として適切でない気がしてしまう。
「おはようございます」とか「お帰りなさい」とか、直感的に想起する返しはそういうった少しかしこまったものが出てくる。
それが心理的距離をとりたいが故に出てくるものなのか、どこから来るものなのかは自分でもよくわからない。
別に、挨拶してくる小学生が「お近づきになりたくないクソガキ」というわけではない。
今のご時世に近所の大人に挨拶できる小学生は立派だと思うし、多分うちの子ども達よりしっかりした小学生だと思う。
なので、多分向こうの問題というよりこちらの問題なのだろう。
「おはようございます」でなく「おはよう」と返すことに、かなりの演技を要するというか、偽りの自分を見せるようなストレスがあるのかもしれない。
あるべき「大人の男性」を演じるのに疲れるというか。
かといって、無視すればいい、というのも違う。
おそらく、自分が「挨拶」というものにかなりのエネルギーを要する人間なので、わざわざ大人に挨拶をしてくれる「善良な小学生」に残念な気持ちを抱かせたいわけではない。
編集後記
小学生の挨拶の話は、これが場面緘黙症傾向がある故の問題なのか、単に自分だけの症状なのかはわからないが、子供関連ということと、自分の中でひっかかっている話なので表に出してみたところである。
場面緘黙症は想いを表に出さない(出せない)ので何も考えていないように見えること、または不機嫌が故に黙っているように思われることも多いのだけれど、その裏で複雑な想いが錯綜していることがあると思っている。
今の時代は慌ただしいので、後から「あの時はこう感じていた」と弁明できる機会が無いことの方が多く、一度誤解を受けるとそのままになってしまうことも多いと感じる。
自分のような人間にとっては、このブログのように想いを整理して吐き出すことができる場があることは一つの救いでもある。
誤解を受けた相手が見ることなどはもちろん期待していないのだけれども、起きたことを自分の中で整理して、気持ちの収めどころを見つけることができる。
コメント